東京逍遙

川村伸秀
第1回「暗香浮動」道行
 三月に入ったばかりで、東京の朝はまだ寒い。もう少しもう少しとまどろみのなかを彷徨っていると、ホーホケキョ、ケキョ、ケキョッと鶯のさえずりに、思わず夢から目覚めた。春はもうそこまで来ているのだ。そうだ、おちおちしていると梅が散ってしまう。こりゃいかんと、重い腰を上げた。以前から梅の咲く季節となったら「暗香浮動」の道行(みちゆき)をしてみようと心に決めていたのだ。
 明治35(1902)年、『東京朝日新聞』の記者八名は、揃って梅見に出かけた。八名とは、饗庭篁村(あえばこうそん)、右田寅彦(のぶひこ)、黒田撫泉、山本笑月、栗島狭衣、瀬戸半眠、水谷幻花、武田仰天子(ぎょうてんし)の面々である。おまけにあとから、半井(なからい)桃水も駆けつけて総勢九名。このとき、彼らが持ち回りで新聞に綴った連載が「暗香浮動」である。その「暗香浮動」の足跡を辿ってみたいと考えたのが去年の冬。「暗香浮動」と出会ったのは、水谷乙次郎著『好古叢書1 幻花繚乱』(川村オフィス、平成24年12月)に収録する幻花の文章を探しているときのことだった。実に愉快な道中記に、一読すっかり魅了されてしまった。
 急いで支度を済ませると、大森駅へ。「暗香浮動」では、『東京朝日新聞』記者ご一行様は大森停車場から、徒歩(かち)で明保野楼(曙楼とも書く)という旅館へと向かうのだ。当時、明保野楼は梅見の名所だった。『大日本名所図会第85編 東京近郊名所図会』第10巻(東陽堂、明治44年2月)には次のように書かれている。

曙楼は堤方内膳山(ないぜんやま)の中腹にあり。料理店と旅館とを兼ね。山崖を夷(たひら)け径路を通じ。千三百余株の老梅と三千余株の南天燭を植。其の間に械樹と杜鵑花(つゝじ)とを交ゆ。山に倚りて亭しゃ(漢字は木偏に射)十余棟を構ふ。長廊相連り危欄空に横(よこた)はる。楼は東京湾に対するを以て眺望絶佳。房総の山色は坐し之(これ)を掬するを得べし。且つ鉄冷鉱泉湧出し諸病に効ありといふ。(19ページ)

 一行は明保野楼に一泊、翌日は池上本門寺へ詣でて帰ってくるという話なのだが、その明保野楼、昭和4(1929)年に閉楼してしまって現在ではもうない。そこで、代わりに池上梅園で梅見をして来ようと考えていたのである。地図で見ると、大森から池上までそれほどでもないように感じられる。せいぜい2、30分も歩けば着くだろう。ならば折角大森に行くのだから、「暗香浮動」の道行前に、大森貝塚遺跡に寄り道をしてみるのも悪くないと考えた。

(一)


(二)へ
 大森駅北口を出たすぐ前を走っているのが池上通り。これを左に行くと明保野楼の方角だが、まずは反対方向へと足を向けた。数分も行くと、あったあった。NTTデータの建物の脇に「史跡大森貝塚」の標識がみえる。さっそく入口を抜け、その先にある階段を降りていくと、線路脇にドーンと縦長の石碑が建っていた。「我国最初之発見」とあって、真ん中には一際大きな文字で「大森貝墟」、そのあとに「理学博士佐々木忠次郎書」と記されている。前は線路だから時折、JR京浜東北線がゴーッと音を立てながら通り過ぎていく。そう、大井町から横浜方面に向かうときに電車から見えるあの石碑だ。

モースの助手・佐々木忠次郎博士が
昭和5年に建てた「大森貝墟」の碑
 そもそも、発見者のエドワード・シルヴェスター・モースとは何物なのか。実は、彼は三味線の研究家なのだ。明治10(1877)年、三味線音楽研究のために遠路はるばる船に乗ってアメリカから日本へとやってきた……というのは真っ赤な嘘、シャミセンはシャミセンでも、モースが研究していたのはシャミセンガイという貝のほうであった。貝のなかでも日本に多いとされる、このシャミセンガイのような腕足類に属する珍しい貝を求めて、横浜港へと降り立った音楽学者、もとい動物学者──それがモース博士である。ちなみに、博士、当時の日本ではモールスと呼ばれていた。磯野直秀著『モースその日その日』(有隣堂、昭和62年10月)によれば、あのモールス信号を発明したサミュエル・モールスは、この人の遠い親戚なのだという。
 横浜から新橋へと向かう汽車に乗ったモースは、車窓から偶然この貝塚を発見した。当時は貝塚に興味のある日本人などいなかったから、単なるゴミ山とほったらかしにされたままだったのだろう。このモース博士を、外国の知識を喉から手が出るほど欲しがっていた明治政府は、渡りに舟(といっても、博士のほうからやって来たのだから、むしろ鴨ねぎか)とばかりに、お雇い外国人として東大の教師に招いた。日本で安定した地位を得たモース先生は、以前から気になっていた貝塚発掘に着手した。すると、鏃やら土器やらが出てくるわ、出てくるわ、ここに日本考古学の扉が開かれることになった……といえば聞こえはいいが、モースが貝塚を掘ったのは貝の専門家としての興味からで、そこから大量の古代遺物が出土してきたことは予想外、最も驚いたのは当の博士自身ではなかったろうか(たぶん)。このとき、モースの助手を務めたのが、石碑に書を認めた佐々木忠次郎であった。
 ところが、ところがである。知っている人は知っているように、当時モースが鍬を入れた本当の場所は、ここではなかったのだ。

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