第2回 江見水蔭の足跡
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋っている」そんな梶井基次郎のひそみに倣っていえば、地面の下には太古の記憶が埋っている。いまやそのほとんどがアスファルトやコンクリートで覆われてしまった東京では想像し難いかもしれないが、明治のころは都心でも地べたの土を掘り返すと、土器やら鏃(やじり)やら、古代人の遺物がゴロゴロと出土した。考えてみれば、ちょっと地面を掘ってそんなものが出てきたとしたら、これは明治人ならずとも興奮するに違いない。何やら自分もいっぱし考古学者になって、古代人と対話でもしているつもりになれるのだから。明治時代にも、そうした気分を味わいたくて、せっせと地面を掘り返している連中がいた。今回取り上げる作家の江見水蔭もその一人である。江見水蔭については、第一回の「「暗香浮動」道行」で大森貝塚を訪れた際、E・S・モースの発掘後に大審院長・児島惟謙の敷地となっていたこの貝塚を改めて掘り起こした人物として触れておいた。そもそもこの発掘ブームを作ったのは、モースの大森貝塚発掘だったのだから、水蔭がそこを掘ってみたくなったとしても無理からぬことであろう。水蔭は明治33(1900)年から品川に住んでいて、品川在住の筆者の家の近くにもゆかりの場所がいくつもある。今年(平成26年)は水蔭没後80年でもあるし、品川の水蔭に関係した場所を巡ってみようというのが、今回の趣向である。水蔭がどんな人物だったかについて、改めて『日本人名大事典』(平凡社、昭和54年7月)で確認しておこう。
(一)
東京逍遙

川村伸秀
江見水蔭(1869-1934)明治大正時代の小説家。明治2年8月、岡山市壱番町に生る。名は忠功(ただかつ)。(中略)14年軍人を志願して上京。18年杉浦重剛の称好塾に入り、巌谷小波(いわやさざなみ)、大町桂月らと同窓。夙(つと)に小説をものし、21年硯友社社員に加はり文筆生活に入る。25年田山花袋と共に江水社を起し、雑誌『小桜縅(おどし)』を発行す。27年中央新聞、31年神戸新聞に入り、33年帰京して博文館に入る。37年転じて二六新報記者となり、折からの日露戦争に、百三十余の軍事短篇小説を連載す。「女房殺し」(28年10月、出世作)「泥水清水」「炭焼の烟」「新潮来曲」などの清新なる詩的短篇を書く傍ら、探偵小説、運動(スポーツ)小説、冒険小説、軍事小説の類にも多く筆を染む。ためにその本領とするところは次第に興味本位と通俗物に推移し、後年には純文芸作家としてよりも寧ろ探偵冒険小説作家として多く知られるようになつた。その好んで題材とするところは、甚だ独得のものであり、考古学的興味ある『地底探検記』や、山窩族を取扱つた作品の如きは彼のものが最初である。また相撲を好み自宅の庭に土俵を設け、江見部屋と称した。硯友社作家中の最後の一人であつたが、晩年不遇、全国行脚中、クルップ性肺炎にて昭和9年11月3日、松山に客死、年六十六。著書の異色あるものに水車、自己中心明治文壇史、硯友社と紅葉、佐渡脱獄鬼、佐渡へ佐渡へ、がある。
 水蔭について一通り、ご理解いただけただろうか。では、そろそろ彼の足跡を探す旅に出発しよう。
今回は、電車を利用する必要がないので、自転車で巡ることに決めた。折からの春一番に煽られながら、戸越銀座を横切り、百反通りをまたぎ、目指すは、西五反田にあるTOCビルである。TOCとは「東京卸売りセンター」の略称である。つい「ティーオーシー」と読んでしまうが、あくまでも「テーオーシー」と、
日本風に読むのが正式……らしい。
 水蔭の足跡を探すのに何故TOCにやって来たのか。TOCが建つ前、ここには星一(はじめ)の経営していた星製薬の本社兼工場が鎮座ましましていた。星一というのは、ショートショートで知られるSF作家・星新一のお父さんである。星新一も品川に住んでいて、筆者も生前近所の本屋で一度だけお見かけしたことがある。星一の息子の名前が星新一、自分の子どもだから新しい一(はじめ)とつけたのかと笑ってしまったが、これは星新一が自分のペンネームとして宛てた名前で、本名は「親一」だった。「親切第一」をモットーとした星一がつけた名前と考えれば、確かに「親一」のほうが納得がいく。星一の奥さんは精(精子とも)。彼女は、前回も触れた解剖学者で体質人類学者でもあった小金井良精(よしきよ)と歌人・喜美子の娘である。小金井良精は東京人類学会の会員で、日本の先住民族はアイヌだったのかそれともコロボックルなのかをめぐる論争では坪井正五郎と争った相手なので、坪井の伝記(『坪井正五郎──日本で最初の人類学者』弘文堂、平成25年9月)を執筆した筆者にとっては親しい名前である。奥さんの喜美子は森鴎外の妹だから、星新一は母方から文豪の血を受け継いだことになる。父親の星一のほうは、アイディアマンではあったが、作家的なセンスには欠けていたようだ。そこで、星製薬の宣伝の一つとして考えたPR小説『三十年後』(新報知社、大正7年4月)は、著者名が星一となっているものの、実際には星が原案を提供し、筆を執ったのは江見水蔭だった。ここで水蔭とつながるのである。
 『三十年後』という作品は、南洋の無人島から30年ぶりで帰国した浦島ならぬ嶋浦太郎が、30年後の日本のユートピア社会を見物して歩くという話。そのユートピア社会を実現したのが誰あろう星一その人であったという落ちがついている。この本の原本は、作家の横田順彌さんの『近代日本奇想小説史 明治篇』(ピラールプレス、平成23年1月)を編集した際、横田さんがお持ちのものをお借りしたことがあるのだが、文庫本のような小型サイズの袖珍本ながら、240ページものボリュームのある、しっかりした長篇小説である。
 ついでに触れておくと、この星一というのはかなりの傑物で、フリーズドライ製法を発明したり、日本初のチェーンストアの導入も行っている。その他にも、京橋にあった営業所には、三階にギャラリーを設けており、大正9(1920)年10月、ロシア未来派の画家ダヴィト・ブルリュークとヴィクトル・パリモフが来日した際には、「日本に於ける最初のロシア画展覧会」の記念すべき会場となった。この展覧会については、画家・石井柏亭が「日本に於ける最初の露国画展覧会」と題する文章を『中央美術』第6巻第11号(大正9年11月)に寄せていて、そのなかで次のように述べている。

江見水蔭
 会場に充てられた南伝馬町の星製薬会社の三階へ昇つて見ると、画は壁に立かけられたり、床に横(よこた)へられたりして居た(。)大工が来て区劃も出来かけて居た。(中略)
 其処に出て居たのは主としてブルリュツク、パリモフ二君の画であつた。画家三十名、点数五百に近いと云ふのだけれど、ブルリュツク君の百五十点とパリモフ君の五十余点とが其なかで重きをなして居るには相違なかつた。〔181ページ〕

星製薬京橋営業所、大正八年に七階建に改築された
(『星薬科大学八十年史』同大学、平成3年5月より)
 これを読むと、ちょっとした展示というよりは、かなり本格的なものだったことが判る。展示内容についても、当事者のブルリュークとパリモフの数が多いのは当然としても、『極東ロシアのモダニズム1918-1928──ロシア・アヴァンギャルドと出会った日本』展図録(同展開催実行委員会、平成十四年四月)によれば、このときウラジミール・タトリンやカジミール・マレーヴィッチまでが展示されたというのだから驚かされる。
 また、星製薬の広告部には、ベストセラー小説『富士に立つ影』を書いた大衆作家の白井喬二や『おへその宙返り』をはじめとするユーモア小説の作家・奥野他見男、歌人で画家の早川幾忠などを抱えていた。おまけに活版・デジタル間の印刷の一時期を支えていた写植(写真植字)を開発したのは、この星製薬にいた石井茂吉と森沢信夫の二人で、のちに石井は写研を、森沢はモリサワを作り、二大写植機メーカーの社長となっている。
 星一のユニークさの一端は、早川幾忠の『完石山人 面白づく人生』(完石山人著作発行会、昭和59年2月)にある次のエピソードからも窺い知ることができよう。
 会社は朝九時の出勤です。ところが十時ごろでないと行きませんや。広告係の連中はね。それ、黙つてるんですね。私は、九時にはちやんと出ていくんですけどね、なあに、会社の為事なんかしたことないんだ、こつちは自分の勉強が必要だから。どういふことをするかッていふと、万葉集を写したり、関係の書物を読んだりね、私の机の上には、いつも群書類従がひろげてあつたり、和本の延喜式なんかがひろげてある。さういふことをやつてると、さすがに社内で問題になる。(中略)
 これは、社長の秘書をやつてた友人があとで教へてくれたんですがね、課長会議でさういふ話になつたとき、星さんは黙つてきいてゐて、諸君ねえ、ボクがさういふこと知らないと思つてゐるのかい、知つてるんだよ、早川がそんなことしてるの、百も承知だよ。ボクが社長室から事務室に出ていくと、同時にあらゆる机の上でソロバンの音がするぢやないか、それから、立てかけてある帳簿をひつぱり出して、急にねえ、みんな為事してるやうな顔するぢやないか。人間、朝から晩までそんなにやれる道理がない。
 早川なんか、オレがそばへ行つて立つてねえ、お前、何してるんだッていふと、はい、群書類従をうつしてるんですとかなんとか、あの野郎、平気でいふ、さういふこと平気でいへるやつが、諸君の課にゐるかいと、それを社長の秘書がねえ、メモに克明に書いて、給仕にもたして寄こして来たんだなあ、私のところへ。さつき、課長会議で社長がかういふことを言つてたよ、ありがてえなあ、と書いてある。本当にありがたいですよ、これは。ですから、星製薬をやめても、星さんとはずうつと会ひましたね。〔22〜23ページ〕
 昭和26年1月、星一が出張先のロサンゼルスで脳溢血で倒れて亡くなると、息子の新一が星製薬の社長に就任した。しかし、そのころすでに多額の借財を抱えていた上に、経営の才にはめぐまれなかった新一は、経営再建に現れた大谷重工業社長・大谷米太郎(ホテルニューオータニにその名を残している)に星製薬を譲り渡し、作家への道を進むことになる。そして大谷米太郎が星製薬の跡地に建てたのが、TOCなのである(最相葉月著『星新一──一〇〇一話をつくった人』上・下、新潮文庫、平成22年4月)。
 ここにやってきたのは、水蔭とゆかりある人の場所というだけでなく、もう一つ以前から気になることがあったからだ。作家の荒俣宏氏は『大東亜科学綺譚』(筑摩書房、平成3年5月)や『ビジネス裏極意』(マガジンハウス、平成5年6月)のなかで、TOCの屋上には星製薬の守り本尊として敷地内に祀ってあった親切第一稲荷が、孫太郎稲荷と名前を変えて残っていると書いていた。『ビジネス裏極意』によれば、その由来書きには次のようにあったという。
そもそも孫太郎稲荷とは、もともと大崎村桐ケ谷の農業を守る地元のおイナリさんだったが、明治44年11月に星製薬が創業し、社神として伏見稲荷とともに併せ祀ったものだという。つまり親切第一稲荷の前身が孫太郎だったのだ。〔222ページ〕
 だが、その後この孫太郎稲荷を訪れた何人かがホームページで記しているところによれば、屋上にはすでに孫太郎稲荷はなく、氷川神社の分社が祀られていたというのである。その真偽を我が眼で確かめるべく、エレベーターに乗ってTOCの屋上へ上ってみた。地上よりもひときわ強く吹いている向い風に逆らって歩いていくと、片隅にそれらしき社祠があるではないか。正面に立って表示を見ると、おおっ、確かに氷川神社だ! 由来も書かれている。終わりのほうは雨風に晒されてかなり判読困難だが、どうやら次のように読めた。

昭和8年11月3日、星製薬工場内にある
親切第一稲荷に額づく星一
(『星薬科大学100周年記念写真集』同大学、
平成23年5月より)
氷川神社は関東地方において素盞鳴尊(すさのおのみこと)を御祭神とする神社の総称です。
 当地の氏神である氷川神社は、御創立年代は不詳ですが、江戸時代より桐ケ谷村と呼ばれた西五反田一円の鎮守であり、明治41年9月13日に同じ桐ケ谷村にあった八幡神社、廣智(こうち)神社(第六天)を氷川神社に合祀致しました。
 下りまして、平成11年6月9日、株式会社テーオーシーは当地の氏神様の御神徳を賜りたく、TOCビル屋上乾隅(いぬいすみ)を緑深き良き処と定めて神社殿を建立し、氷川神社より分霊をいただきお祀り申し上げました。

TOCの屋上に祀られている氷川神社分社
 孫太郎稲荷はここに合祀でもされているのかと思ったのだが、文面には孫太郎稲荷については一言も触れられていない。では、孫太郎稲荷は一体どこへ消え失せたのだろう? 氷川神社分社から踵(きびす)を返し、屋上の反対側の端まで行って外を眺めてみる。ぽっこりと土鍋の蓋のような形状をしたターキッシュブルー色の屋根が見えた。星一の作った星製薬商業学校(現・星薬科大学)の講堂である。星薬科大学もこのあと訪れてみるつもりなのだが、その前に次の目的地、氷川神社へ向かわねばならない。

TOCの屋上から星薬科大学の講堂を望む


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