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 再び起伏の多い道筋を通って中原街道に出、平塚橋方面へ向かう。しばらく行くと、星薬科大学と書かれたアーチ状の柱が見えてきた。その下を潜り更に正門を抜けると、TOCビルの屋上から見えた鍋蓋のような形状をした講堂がもう眼の前だ。その手前には星一の銅像が建っていて、構内に入ってきた者を迎えてくれる。
この講堂の設計者は、チェコ出身の建築家アントニン・レーモンドである。講堂を設計することになったいきさつについてレーモンドは、『自伝 アントニン・レーモンド』(三沢浩訳、鹿島出版会、新装版、平成19年9月)のなかで、次のように述べている。

星薬科大学正面にある星一の銅像
 モーガーという日米貿易会社の理事の1人の紹介によって、私は製薬業の大公、星一に会った。彼との出会いこそ語る価値のある話だろう。
 ある日の午後、私の事務所にあらわれた星は、「星セールスマンの学校」の概要を手にしていた。それには各100人の教室、1,000人の講堂、水泳場、体育館、その他の希望条件が載っていた。明日までにデザインができるかとの彼の問いに、「できます」と私の熱意が答えてしまった。
 彼が出て行くや否や仕事にかかり、翌日の夕方デザインはできた。彼はそれに目を通し、多少の質問をしたが、驚くべきことには、それ以上の詮議もなく、即刻実施図面を私に委託したのである。星と一緒に来たのは五十嵐次之助工事長、総合請負清水組(現在の清水建設)の代表であった。彼こそ、その後の長い年月の間、多くの建物で協働してくれた人であった。
 その結果が、東京における最初の鉄筋コンクリート造の一つとなった。三角トラスで構成された、バックミンスター・フラー的な講堂を覆うドームは、構造計算なしで設計され建築された。主階段に代る広い傾斜路、鉄の螺旋階段はそれ以来随分模倣もされた。
 建物は維持不足と、占領軍による荒っぽい使用とで老朽化してきたが、今もそのまま五反田に建っている。〔七三〜七五ページ〕

 この本が出版されたのが昭和45(1970)年だが、更にそれから44年が経過したいまも(平成26年)なお、講堂は「そのまま五反田に建っている」。講堂のなかは以前、機会があって見せてもらったことがある。メイン・ホール外側には階段を設けておらず、2・3階へはスロープで上るようになっているのが特徴的だ。メイン・ホールのなかには、1,200を越える座席が並び、レーモンドも書いている三角トラス──これは星の形を象っているらしい──が高い天井いっぱいに拡がっている。植物の描かれたステンドグラスからの採光も明るく気持ちがよかった。
 この講堂の向かって右側には、薬用植物園が設けられている。ここも以前にゆっくりと見せてもらったことがあるが、実験用に各種植物が植えられていて、普段はあまり見かけることのない草花と出会うことのできる都心でも貴重な場所だ。
 入口付近にある守衛室まで戻って、歴史資料館のカードキーをお借りする。電話で伺ったところによると、守衛室に申し出れば歴史資料館を見せていただけるとのことだったからだ。歴史資料館は守衛室向かいの医薬品化学研究所の一階にあった。カードキーをかざしてなかに入り、守衛室でいわれた通り照明スイッチを入れてから奥の部屋に入る。あるある、星一ゆかりの品々がずらりと並んでいる。写真でよく星一がそれを着た姿を見かける制服の実物をはじめ、天使がたいまつを掲げた杉浦非水の星製薬ポスター、星や彼と親しかった後藤新平の揮毫、薬のパッケージの数々、星一の著作等々、暫しそれらに魅入ってしまった。最後に、二十数分ほどある星の生涯を描いた映像を他に誰もいない室内で、一人くつろぎながら見せていただき、歴史資料館をあとにした。
 水蔭の足跡をめぐる趣向が、いつの間にやら星一の足跡をめぐる旅に変わってしまった感もあるが、まあ星も水蔭に負けず劣らず興味深い人物なのでお許し願いたい。本日はここまで。明日は別方向に水蔭の足跡を辿ってみることにしよう。

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