では、実際の貝塚はどこにあったのか。現在、そこは「大森貝塚遺跡庭園」となっている。というわけで、「史跡大森貝塚」を出ると更に右へ右へ。7、8分近くも歩くと、土器片をかたどったようなサーモンピンク色をした造形物に「品川区立大森貝塚遺跡庭園」と表示した看板が見えてきた。手前にある入口を入って真直ぐ進んでいくと、丸い形をした広場に出る。標示によれば、ここは「縄文の広場」というらしい。時あたかも広場には靄がかかり、タイムスリップしたような空間には、なんと縄文人の子どもが戯れているではないか。と、よく眼をこらしてみると、広場に幾つも開けられた穴から、30分おきにシューシューッと水蒸気のような白い煙が立ち上がってくる仕組みになっていて、そのなかを公園に遊びに来た子どもがはしゃぎ回っていたのだった。この広場に向かって左側には、モース博士が手に土器をもってしみじみと眺めている像がある。後ろに「品川区・ポートランド市姉妹都市提携記念」のプレートがあるので読んでみると、「品川区はモース博士生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携を記念してこの碑を建立する 昭和60年5月」と書かれている。そうだったのか。品川区とポートランド市は姉妹都市だったのか。長いこと品川に住んでいるが、初めて知った。
(二)


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 広場の後ろに回ってみると、線路脇にくだる道があってその先に、これも電車から見える横長の碑が、やっぱりドーンと建っていた。こちらの文句は「大森貝塚」の文字が横書きで大書されており、その下に「昭和4年5月26日起工」、更にその下には今度は縦書きで、発起人と賛成人の名前が連ねてある。発起人は本山彦一。大阪毎日新聞社社主を務めた人だが、考古趣味も持ち合わせていたから、発起人として名乗りを上げたのだろう。賛成人のなかにはモースに学んだ動物学者の石川千代松や解剖学者にして形質人類学者でもあった小金井良精(よしきよ)、海軍軍人で若いころに弥生式土器を最初に発掘した有坂しょう(漢字は、金偏に召)蔵、陸軍軍人で考古学者でもあった大山柏、そして先の碑を建てた佐々木忠次郎などの名前もみえる。 

本山彦一が発起人となって建てた「大森貝塚」の碑

 それにしても何故、別の場所に二つも碑が建っているのか。その理由は、発掘後40年も経ってからいざ碑を建てようとしたら、その場所の記憶が曖昧で最初は現在の「大森貝塚遺跡庭園」内にある「大森貝塚」の碑を建てたものの、どうも違うんじゃないのと、佐々木忠次郎が主張して一年後に、「大森貝墟」の碑をもう一つ別に建てた。その後、どっちが正しい論争が続いたが、昭和52(1977)年になって発掘手続きをした際の公文書が見つかり、「大森貝塚」の碑に軍配が上がったというのである。
 だが、ちょっと待ってほしい。そんな公文書がなくてももっと簡単に判る方法が、実はあったのだ。その鍵は、作家・江見水蔭の本に書かれている。江見水蔭というのは、尾崎紅葉や巌谷小波(いわやさざなみ)らが作った文学結社・硯友社の一員であるが、大の相撲好きでもあって(両国にある「国技館」の名前は水蔭が考えたという説もある)、品川にあった自宅の庭に土俵まで作って文士相撲を催していた。この相撲に足繁く通っていたのが、同じく相撲好きで、のちに『相撲通』(実業之日本社、大正3年5月)のような本まで書いた栗島狭衣である。そう、この人は「暗香浮動」の参加者の一人でもある。ちなみに狭衣はのちに役者に転じた。
 あるとき、この狭衣が同じ『東京朝日新聞』の記者仲間として水蔭の許に連れてきたのが、水谷幻花だった。幻花の趣味の一つに古代遺物の発掘があって、暇さえあればあちこちに出かけてはもぐらのように地面を掘り返していたから、このときも水蔭相手に発掘の面白さを力説したのだろう。水蔭もすっかり幻花の言葉に乗せられて考古趣味の世界へ引きずり込まれてしまった。その発掘の模様を綴った本が、水蔭著『探検実記 地中の探検』(博文館、明治42年5月)である。このなかに「大森貝塚の発掘」という章があって、明治41(1908)年1月21日、幻花と共に大森貝塚を掘る話が出てくる。

 (モースが)かかる大発掘を試みてから、非常に此所(大森貝塚)は有名に成つたが、今は児島惟謙(いけん)翁の邸内に編入せられて、迚(とて)も普通では発掘する事が出来ずにいた。
 其所(そこ)を発掘し得(う)る機会を得た。千載の一隅。それに参与した余は、実に採集家としての名誉此上も無い。
 それは斯(か)ういふ縁引からである。水谷幻花氏と同じ社に居る縦横杉村広太郎氏(「縦横」は雅号、この人は「楚人冠」の雅号のほうがよく知られている)は、児島翁とも知り、又令息とも交際(まじは)られて居るので、談、邸内の遺跡に亘つた時、吾社にこれこれの人(幻花のことである)が居るといふ事から話が進んで、学術の為となら歓んで発掘を承諾するといふ運びに成つたのである。(154〜155ページ)

 この本は、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にも入っているので、興味のあるかたはご覧いただきたい。ここに出てくる児島惟謙とは、大審院長時代、来日したロシアの皇太子ニコライ2世を、あろうことか滋賀県大津で警護にあたっていた筈の巡査・津田三蔵が突如斬りつけた、いわゆる大津事件を担当し、政府首脳陣が津田を大逆罪で極刑にするよう主張したのに対し、司法の独立を勝ち取って無期刑とし、「護法の神様」と謳われた人である。それはさておき、問題は大森貝塚がこの児島惟謙の敷地内にあったという水蔭の記述である。つまり、大森貝塚がどこにあったかという記憶が曖昧だったとしても、児島惟謙の敷地がどこにあったかを確かめればよかったのである。
 何かその手がかりになるものはないかと、「大森貝塚遺跡庭園」の周りをうろついてみたら、案の定、庭園向かって右隣りの浅野医院を一つ置いて、その隣りにあるマンション脇に「土地由来」と書かれた標示板があった。そのなかにこんな記述がある。

 この一廓(旧大井村鹿島谷2950-51番地)に、児島惟謙が広大な屋敷を建てたのは、明治36年ころのことである。

 いくら広大といっても「大森貝墟」の碑のところまで広がっていたとはとても思えない。つまり、モースの発掘場所は「大森貝塚遺跡庭園」内にある碑のほうだと判るのである。


品川歴史館にある水琴窟のつくばい

 さて、ここまで来たのだからと、庭園より先にある品川歴史館まで足を伸ばしてみた。折しも、館では「江戸・明治の旅にでかけよう─絵図・古地図で語る田中啓爾文庫の世界─」展をやっていて結構楽しめたが、ここは常設展示もなかなかよい。そして庭には水琴窟もあるのだ。水琴窟をご存知だろうか。地中に掘られた小さな穴に水を注ぐと、落ちて行く音が穴のなかにつくられた空洞で反響するようになっている仕掛けのことだ。その音を、竹筒を耳にあてたまま穴のそばにおいて聴くのだ。水音はまるで金属音のような不思議な音をたてて落ちていく。何度も水を注ぎながら耳に心地よいその音を聴いていたら、この水琴窟が登場する大好きな漫画「水琴滴」(鳩山郁子著『スパングル』青林工藝舎、平成16年8月に収録)がまた読みたくなった。



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