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 筆者が『斎藤昌三──書痴の肖像』(晶文社、平成29年6月)でその生涯を追った稀代の編集者・斎藤昌三は、根岸武香が燐票(マッチのラベル)の蒐集家であったことについて、『変態蒐癖志』(文芸資料研究会、昭和3年1月)のなかで次のように述べている。

この方面の蒐集の元祖は故根岸武香氏(貴族院議員)で、氏は明治三十年前後から蒐集を創められた。著者は先達つて故根岸氏の蒐集品を拝見したが、今になつて見ると金では買へない逸品揃ひであつた。〔23頁〕

 しかし、武香が燐票蒐集の元祖であるというのは、どうやら違っていたようだ。何故なら、やはり集古会会員で、基督教牧師にして民俗学者でもあった山中共古──菅公千体の発起人の一人にも本名の山中笑で名を連ねている──が『書画骨董雑誌』第61号(大正2年7月)掲載の「マツチペーパーの歴史」で次のように語っているからである。

 (前略)さよう、確か日清戦争前のことでした、其の時分、私(わたくし)が購読して居た『風俗画報』を自分で合本したことがある。其の時に此の合本に表紙を付けたいが、何か妙案はないかと考へた、色々に考へた末、フト燐寸(まつち)のペーパーのことを思ひ出し、宅にあつた燐寸を集めて見たら十ばかり種類があつた。ソレを一枚の紙へ雑(ま)ぜ張(ば)りにして見た所、意外に面白いものが出来た。之れは妙、之れは妙と、我れながら悦んだが、私がマツチのペーパーを蒐集しやうとの心を起したのは、其の時からです。
 十年ばかり前に死んだ人ですが、埼玉県の多額納税者で根岸武香と云ふ人があつた。此の人は有名な古物家で、私(わたくし)とは大の仲よしでした。或る日私は此の人に、マツチのペーパーの話をすると、ソレは面白い一緒に蒐集しやうと云ふことになつて、私と根岸と、一緒になつて蒐集しました。日清戦争の頃までに、私が三百足らず集め、根岸は六百足らず集めたと記憶して居る。其の頃は、私等の外にはコンナことをするものが無かつた様に思ふ。〔23頁〕

 共古はさらに、自分より前に蒐集を始めた人に「芳原裏の大音寺前で居酒屋をして居た、王成と云ふ老人がいた」〔23頁〕とも述べている。誰が燐票の蒐集を始めたかは別として、武香がその蒐集家であったことについては、『萬朝報』や『朝日新聞』の記者を務めた、同じく集古会会員であった水谷幻花も「府下の奇癖家」(CD-ROM、水谷乙次郎著『好古叢書一 幻花繚乱』川村オフィス、平成24年12月)で述べているのだが、そのなかでお抱えの画家・広田華州(幻花は「霞州」と表記しているが、友憲さんにお伺いしたところ「華州」が正しいそうである)と共に東北地方にマッチの採集旅行をしたときの面白いエピソードを紹介している。

先づ水戸市に於ける燐寸(マツチ)の採集を手始めに磐城平(いわきたひら)まで力限りに採集し平(たひら)駅までの間に両氏とも一背負(せおひ)づゝ背負(せおふ)ほどの大荷物となりしに大いに閉口し兎も角も商標(ペーパ)だけは剥し取しも跡の燐寸(マツチ)の処分の付けやうなく詮方尽て宿屋の主人(あるじ)を口説て三分の一の価(あたひ)に買取り貰ひ其金を以て再び先へ行(ゆ)きて買ひ調(とゝの)へては追剥燐寸(マツチ)を売ると云ふ方法を立て大身代の旦那様は好(すき)からとは云へ旅の燐寸(マツチ)売りとなりしもをかしきが此の旦那様今も往来に落散りある燐寸(マツチ)の商標(ペーパ)を見ては如何にも見のがしにならず四辺(あたり)を見廻しては密(そつ)と懐中に捻込(ねづこ)むなど愈々(いよいよ)の愛嬌なり〔13頁〕

 なお、共古は「彼〔武香〕が死んで後、売物に出たが、何でも三千〔幻花は六千種類としている〕からあつたソウです」〔24頁〕と述べている。もしやと思いこれが残っていないかを友憲さんにお訊ねしてみたのだが、やはり残念ながらないとのことであった。
 その代り友憲さんの口から意外な話が飛び出した。ここに登場する広田華州の子どもが種雄という人で、もともとは日本陶器(のちのノリタケ)にいたがその後、伊勢丹の重役になったという。そして、その娘が友憲さんのお母様であるというのだ。つまり友憲さんは華州の曾孫に当ることになる。以前は華州の画集のようなものがあったが、友憲さんのお父さんが誰かに貸したまま行方知れずになってしまったという。
 華州に関しては、鈴木光次郎著『現代百家 名流奇談』(実業之日本社、明治36年9月)に、次のような蛙嫌いのエピソードも紹介されている。

広田華州は画師(ゑかき)の癖に蛙が大嫌で、蛙のかの字も厭だと云ふてるが、或時根岸武香と郊外散歩に出かけて、途中から気持が悪いと独り先へ帰へつたきり十日ばかり顔も見せぬので、武香も心配して華州の宅(うち)へ尋ねてみると先生ウンウン伸(うな)つて床に就いてゐる、之は存外の大病早く医者さまでも招(よ)んだら好からうと忠告すれば、細君は面目なさ相に『ナニは華州(やど)先日御伴をした途中で蛙に出会(でくわ)したと申すこと、病気は夫(それ)が根元(もと)ですからモウ三四日も経てば治りませう』と云ふて、平気で笑つて居た、〔168頁〕

 友憲さんによれば、武香と華州、そしてもう一人根岸家の親戚で武香同様に学問好きだった玉作村の名主・須藤開邦の三人はとても仲がよく、よく連れ立って旅行をしたということだった。開邦には大里村の歴史を記録した手書きの『桐窓夜話』という著書があり、原本は先に記した甲山文庫に入っていることもご教示いただいた。
 後日改めて調べてみたところ、この本は「地理直シ普請」「江戸政府貨幣制度」など全20編から成り、『埼玉史談』第2巻第1号〜第5号(昭和5年9月〜翌年5月)で活字化されていることが判った。この『埼玉史談』という郷土誌は筆者にとっては、とても興味深い。何故なら、この雑誌の顧問を務めていたのが坪井正五郎の人類学教室にいてその後、考古学者として知られた柴田常恵(じようけい)であったからである。しかも幹事を務めていたのは稲村坦元なのである。この人は僧侶で郷土史家でもあった人だが、斎藤昌三もよく知る人物であった。昌三は『少雨荘交友録』(梅田書房、昭和23年12月)のなかの「稲村坦元」の項で次のように述べている。

 月々の展書会に誰の紹介で来始めたのか、今国会図書館に奉職してゐる徹元青年と親しくなつて、その縁で父君とも親しくしてゐる。 
 老は二三の寺も持つてゐるらしいが、今は文部省の国定調査員として光つてゐる。
 国宝や重要美術の監定は、老の最も得意とするところで、仏教美術の話などは時間の経つのも忘れて了ふ。〔50頁〕

 稲村坦元は相当の知識の持ち主であったようだ。ここに登場する息子の徹元さんには、斎藤昌三を調べている過程で筆者もお会いしたことがある。八十八歳のご高齢にしては矍鑠(かくしやく)としておられ、拙著にもお写真を掲載させていただいた。『埼玉史談』は、意外なところにつながっていたのである。
 『桐窓夜話』はまた、『埼玉史談』とは別に友憲さんのお父さん(根岸喜夫)が編纂委員長を務めた『図説 大里村の歴史』(大里村、昭和60年11月)でも「桐窓夜話(抄)」として活字化されている。こちらは(抄)とあるように10編、半分の抄録だが、『埼玉史談』には掲載されていない「あとがき」がついている。
 その後も明治の鉄道王と呼ばれた投資家・雨宮敬次郎の養子・豊次郎に嫁いだのが武香の妹・ゑみ、また友山の姉・花の子どもが慶応3(1863)年の第5回パリ万博に民間人として参加した清水卯三郎であるなど、根岸家の興味深い系図の話などを伺っているうちにいつしか時は過ぎていた。またの機会を約して根岸家を辞したとき、戸外はもう薄闇に包まれていた。

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