西五反田は起伏に富んだ地形で、自転車にはいささかきつい。五反田図書館脇の坂を下ると、今度はかなり急な上り坂となる。自転車を降りて押しながら息も絶え絶えに上り切ると、攻玉社中学・高等学校の校庭前に出た。この学校の創業者・近藤真琴は、『近代日本奇想小説史 明治篇』にも登場する翻訳SF第一号の『新未来記』(ジオスコリデス作)の訳者である。攻玉社には資料展示室があるのでこちらに来たついでに見せてもらおうと事前に電話してみたのだが、生憎今日は火曜日、展示室が開いているのは、毎週水・金曜日の週二日とのことで、残念ながら今回はあきらめ、攻玉社を横目に氷川神社の裏手へとやってきた。この神社の境内こそ、水蔭が初めて土器片を手にした記念すべき場所である。水蔭は『探検実記 地中の秘密』(博文館、明治42年5月)のなかで、次のように述べている。

 明治35年の夏であつた。我が品川の住居から遠くもあらぬ桐ケ谷の村、其所に在る氷川神社の境内に、滝と呼ぶも如何であるが、一日の暑を避けるに適して居る静地に、清水の人造滝が懸つて居るので、家族と共に能く遊びに行つて居たが、其時は、今は故人の谷活東子が、畑の中から土器の破片を一箇(ひとつ)拾ひ出して、余に示した。
 まさか余は、摺鉢の破片(かけ)かとも問はなかつた。が、それは埴輪の破片だらうと言うて問うて見た。
 活東子は鼻を蠢(うご)めかして『いや、之は、埴輪よりずツと古い時代の遺物です。石器時代の土器の破片です』と説明した。『すると、あの石の斧や石の鏃や、あれ等と同時代の製作ですか』と聞いて見ると。『然(さ)うです、三千年前(ぜん)のコロボツクル人種の遺物です。此土器の他に、未だ種々の品が有るのですが、土偶なんか別して珍品です』と答へた。
 『それでは、野見宿禰(のみのすくね)が獻言して造り出した埴輪土偶とは別に、既に三千年前の太古に於て、土偶が作られて有つたのですね』
 『然うです、それ等は皆コロボツクルの手に成つたのです』
 余は、コロボツクルの名は、曾て耳に入れて居た。同時に人類学者として坪井博士の居られる事も知つて居た。けれども、日本に於ける石器時代に就ては、全く注意を払はずに居たのであつた。
 のみならず、いくら注意を払つても、却々(なかなか)我々の手に──其遺物の一片でも──触れることは難かしからうと考えて居たのが、斯(か)う、容易に発見せられて見ると、大いに趣味を感ぜずんばあらずである。
 『這(こ)んな処にでも君、遺物が有るのですか』
 『有りますとも、第一、品川の近くでは有名な権現台といふ処が有ります。其所なんぞは大変です、這んな破片は山の様に積んで有ります』
 『君が斯う如何(どう)もコロボツクル通とは知らなかつたです。何時の間に研究したのですか』
 『それは友人に水谷幻花といふのが有ります。此人に連れられて、東京近郊は能く表面採集に歩きました』
 話を聞いて見ると、如何にも面白さうなので、ついつい魔道に引入れられて了つた。抑(そもそ)も此氷川の境内で拾つた一破片(いまでも保存してあるが)これが地中の秘密を探り始めた最初の鍵で、余が石器時代の研究を思ひ立つた動機とはなつたのだ。〔1〜4ページ〕

 水蔭と一緒に氷川神社を訪れた谷活東というのは、尾崎紅葉門下の俳人・小説家で、この人も前回登場した朝日新聞記者の水谷幻花によって考古趣味に走った。水蔭もこの氷川神社での採集のあと、幻花によってすっかりこの道に引き込まれることになる。
 ところで水蔭の『硯友社と紅葉』(改造社、昭和2年4月)には、紅葉と活東の面白いエピソードが載っている。

 〔活東には〕柳橋に小しんといふ義太夫芸妓がゐて、これと深間で、つひ一晩塾を空けた。
 雨の降る日に恐る恐る帰つて来ると、神楽坂の上でバツタリ紅葉に出会(でくわ)した。
 『活、何処へ行つてたんだ。』といきなり大喝した。
 活東、面喰つて、差してゐる雨傘を一生懸命に、グルグル廻しながら、『えゝ、親類のお通夜へ行きました。』
 傘には太文字で柳ばしと墨書きしてあるので、それを見られまいとする曲芸であつたのだ。〔133ページ〕

(二)
 裏口から入ると社殿がすぐ眼の前に見えたので、まずは手を合わせた。社殿向かって右脇には、忍田稲荷大明神が祀られている。もしや孫太郎稲荷と何か関係があるかと「由緒書き」に眼を通してみたが、そこには「明治41年9月桐ケ谷村の八幡神社諏訪神社第六天神社の御祭神を氷川神社に合祀さるその折袖ケ崎神社の忍田稲荷大社を当神社の末社として勧請し今日に至る」としか書かれていなかった。どうやら孫太郎稲荷とは何の関係もないようだ。
 振り返ると左側に階段があるので下りてみた。階段は途中で更に左に折れている。下り切った左手には、階段上の脇からちょろちょろと水の流れ出ている滝があった。水蔭も「滝と呼ぶも如何であるが」と書いているので、当時もそれほど勢いをもって落ちてくる滝ではなかったのだろう。それにしても、水蔭のころからあった滝がいまも残っているというのは嬉しいではないか。

氷川神社境内にいまも残っている滝
 階段下からはまっすぐに道が続き、その先に鳥居が見える。こちらが本来の入口である。──裏から入ったのでこのような説明になってしまったが、この鳥居から入って奥へと進み、その先にある階段を上り、本殿まで行ってお参りするのが正しいコースということになる。境内には、時折鳴くカラスの声が響きわたるだけで、他には誰もいない。まだ肌寒いこの季節に神社を訪れる人など、そうはいないのだろう。
 活東は、はたしてどこで土器片を見つけたのか。一通り眺めてはみたものの、すっかり整備された境内にその痕跡は皆無である。再び参道を戻って階段を上りかけると、ふと階段の手すりを支えている柱が眼に入った。たくさんの柱の一本一本には神社に寄進した人々の名前が彫られているのだが、なんとその最初の柱に「株式会社テーオーシー」の名が刻まれているではないか。やはり、氷川神社とTOCは何か関係があるらしい。
 
氷川神社境内のTOCの名を刻んだ柱
 階段を上り、社務所の呼び鈴を押した。実は、先日お電話で水蔭の話をし、明治期の氷川神社について教えていただきたい旨をお伝えしてあったのだ。
 山口宮司が出てこられ、奥の応接室へと通された。早速お聞きしてみたが、残念ながら氷川神社の古文書類は東京大空襲の際に焼けてしまい残っていないとのことだった。ここに当社のことが少しだけ書かれていますと、東京都神社庁品川支部が調査した『品川のお宮』(同支部、昭和44年8月)という本を見せてくれたが、明治期のことは何も載っていなかった。ただ、水蔭も触れている滝についてだけは「氷川の掛泉」と題して、次のように記されていた。
 桐ヶ谷氷川神社境内にある、断崖を湧出すること1丈5尺〔約4・5メートル〕、泉底石を甃(しきがわら)して人工を施した。泉流徽(き)てつ雌雄の二条ある。里人之を氷川の滝と称して盛夏の候人士来りて、沐浴するもの近年其数を増加した。古老の説に此の滝旧時は水量極めて少かったが、嘉永4〔1851〕年村民協力して水源を疎鑿(そさく)して、爾来年を逐うて漸く今日の状態になったということである。〔259〜260ページ〕

 先にも記したように、水蔭は滝の水量は少ないと述べているから、嘉永4年に増やした水流はその後また衰えてしまったのだろう。山口宮司は、境内から遺物が出土したという話は全く知らなかったという。もしそのようなことがあれば、亡くなった父(先代の宮司)が何か教えてくれた筈ですが、とおっしゃった。また、数年前に境内を整備したときに少しは地面を掘り返しもしたが、工事関係者からは特にそれらしきものが出土したという話も聞いていないという。
 次に、TOC屋上の氷川神社分社についてお聞きしてみると、意外な答えが返ってきた。以前、あそこには孫太郎稲荷があって氷川神社のほうでお世話していたというのである。ところが何年か前、TOCの大谷(卓男)社長のほうから、地元の神社である氷川神社をお祀りしたいので、ぜひ屋上に分社を願いたいという話があったというのだ。そういうことであれば、孫太郎稲荷の御霊(みたま)に本社のほうにお帰りいただく儀式をしなくてはなりませんねと山口宮司がいったところ、驚いたことに大谷社長は、それはすでに祈祷師のような人を呼んで済ませましたというのである。こうして、現在TOC屋上には氷川神社の分社が建立されることになった事情が判明した。
 だが、何故大谷社長はわざわざ孫太郎稲荷ではなく氷川神社に変える必要があったのだろうか? 思うに、それには荒俣氏の孫太郎稲荷訪問が大きく影響していたのではないか。先に荒俣氏の『ビジネス裏極意』から孫太郎稲荷由来のくだりを引用したが、その先には続けて次のように述べられている。

 星の社神はすばらしいパワーがあって、
 五穀豊饒を守護し、
 不浄穢を祓う。
 とある。とりあえず、祭神は「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」になっているが、しかしこれぞ星製薬の社神の、世をしのぶ仮の姿である。
 (中略)孫太郎稲荷と名を変えて、わたしたちの注意をそらしているのも、親切第一稲荷がまだ、“祟り神”だからかもしれない。
 そう、このおイナリさんは、TOCの平将門、TOCの首塚なのだ──。〔222〜223ページ〕

 ここまで書かれたのでは、さすがにTOC側も放っておくわけにはいくまい。孫太郎稲荷は「祟り神」、「首塚」とまでいわれてしまったのだから。そこで思いついたのが、氷川神社の招致である。眼には眼を、歯には歯を、そして神霊パワーには神霊パワーを、だ。なにしろ、氷川神社のご本尊は荒ぶる神・素盞鳴尊なのだ。祟り神ぐらい蹴散らしてくれるに違いない。これこそが孫太郎稲荷が氷川神社と入れ替わった理由ではないか──いやいや、以上はあくまでも筆者の想像に過ぎないことをお断りしておこう。
 貴重なお話を伺った山口宮司に御礼を申し上げて社務所を辞すると、次なる目的地、星薬科大学へと自転車を走らせた。



(三)へ


(一)へ
 滝の下は小さな池になっていて、その傍らにはやや大きな平たい石が立っている。「鉄砲石」と書いた立札があり、「幕末明治維新の志士等が品川宿御殿山の料亭観楼館の庭内で鉄砲の標的として使われたと言われる石で弾痕が残る一名鉄砲石と言う」とあった。

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